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とりあえず、研究会報告

 独我論は意味をなさないが、独我体験はありうる。
 数学における矛盾がどうして問題(あってはならないという価値的な意味で)なのだろうか。
 などと、暇つぶしに考えていたら、今度(10/5)の心の科学の基礎論の研究会が、それでした。概要は当該サイトで確認できますが、とりあえず、報告めいたものを。



 (※ 以下、敬省略。そして、全て、ぼくが理解した限りでの表現で、正しい   ある程度でも原発言者の意図に添っているか  どうかは、保証できません/しようがありません。)
 前半で、渡辺恒夫の『フッサール心理学宣言』を村田憲郎が、後半は、水本正晴の『ウィトゲンシュタインvs.チューリング』を三浦俊彦が評しました。
 いつもは本当に失礼ではありましたが、(付け焼き刃では意味がないという言い訳で)徒手空拳でオジャマしてしていました。今回は、著作の合評会とテーマが絞られているので、形だけ(当該書を読んだだけ)ですが準備できました(→9/20の当ブログで少し触れています )。

 渡辺は、自我体験・独我体験を発達心理学のテーマとして(も?)研究するためにフッサール現象学の手法(とその意図も?)を(心理学研究の)方法とする、と言う宣言。もちろん、その成果の一部も報告しています・・・※ それで終われば、科学としての心理学ですが、なにやら、その奥に広がる妖しい渡辺ワールド   渡辺界と書いた方がいい   も垣間見られます。
 水本の方は、チューリング・マシンの厳密な紹介(なのか、研究なのか、ぼくにはわかりません   いわゆる誰にでも分かるが、その実、分かったような気になさせるだけの入門書的ではなく、きちんとした説明を提示しています)と、C-Tテーゼの"テーゼ"が何を意味している(仮設か定義か定理か)と言う大きな問題提起も提示していますが、眼目は、ウィトゲンシュタインが、数学をどう捉え、かつ、AIや認知科学にどのような視点を提供しているかでしょう(生活形式に埋め込まれた言語ゲーム)。
 しかしながら、当日は、時間の関係と評者のそれぞれの専門からの興味で、各著者のテーマに迫るより前の、そのモチーフとなったフッサールとヴィトゲンシュタインに焦点が当たってしまい、指定討論者として出席されたそれぞれの著者にとっては、物足りなかったかもしれません。ぼくも、また、別の展開を期待していたので、当てが外れた感もあります。が、面白かったことは間違いありません。
 フッサールに関しては、他者をどう捉えるか、ウィトゲンシュタインについては、ウィトゲンシュタインは数学を本当に分かっていたか、と言う話題で白熱しました。
 後者は、三浦が提示した問題で、ヴィトゲンシュタインの数学理解は、トンデモ科学系だ   対角線論法は、カントール(の非加算無限)の証明になっていない、というヴィトゲンシュタインの論法は、あまりにもトンデモすぎる(*1)という指摘が興味を惹きました、と言う上から目線っぽい(←最近は、色々気を配らなくてはいけない)ので、勉強させていただきました。ぼくも、そんな感じを、"一方で"はしてましたし、なぜ、「将来の世代はこのペテンを嘲笑すると信じているし、そう願っている」(水本の当該書のp.423より引用した三浦を更に引用)とヴィトゲンシュタインが言ったのか疑問でした。
 ヴィトゲンシュタインは、C-Tテーゼが言語ゲームのルール(に、現在では、なってしまった)から、そうなるしかない(≒ほとんど外在的に真理としてある)としている。つまり、この対角線論法も現在では(というより、ヴィトゲンシュタインので時代でも既に)同じく、ルールとして認められてもおかしくないでしょう(←水本の本からそんな印象を得ました)。まあ、ヴィトゲンシュタインの上記の言い分は、単にカントールは虫が好かない、というだけなのかもしれません。
 なお、ぼくが、期待したのは、フッサール、ヴィトゲンシュタインの類似性です。
 共に、数学から始まり、独我論の超克(した?)と言う歩みが表面的にも似ています。しかし、それ以上に、その一応の落としどころである、間主観性と言語ゲームが、計算可能性(の否定)に関して、チャーチとチューリングが同じものというニュアンスで、同じではないか、と言うことです。
 他者(が、自己に既に織り込まれている)に関しての同じテーゼではないか、というイメージを抱きました。それが、素人故の"ざっくり"したイメージなのか、それとも、誰かが既に研究(証明あるいは反証)している/しつつあるのか確認したかったのですが(→フッサール・ヴィトゲンシュタインという図式ではなく、ディヴィドソンの自身の見解がそれっぽそうです、同席の方からのご指摘です)。
 もう少しぼくのイメージを言うと、
 現象学的還元は、言語ゲームの中でしか成立しないし、言語は、本質的(形相的還元から観取される)な意味で間主観性の根源的大地そのものではないか
 と言うことです。
 これについては、酒の席に移ってから渡辺氏と村田氏に、尋ねようとしましたが、本論に入りかけたところで、別の話題が気になり(ぼくの好きなクオリアの話題!)、そっちに戦場を移してしまい(*2)、成果が上がりませんでした。
 

*1  (くどいですが、あくまでも、非学者(*1.1)であるぼくのイメージです)。
ヴィトゲンシュタインの言は、対角線論法は、実数(以下、R)と自然数(以下、N)の1:1対応を作る規則がない、と言うだけであって、それは、実数の基数が自然数の基数より多いと言うことを証明しているのではない。
 これに対して三浦の見解は、
 矛盾が証明されたら、前件のどちらを否定してもいいではないか、ということです。
 つまり、
1. NとRが1:1対応できたとする(Rの全てが、Nに番号づけられ、そのNの順に表として並べられる)。つまり、Nの基数=Rの基数
2. 対角線論法により、1.で作った表に現れないRの一つが作れる。
3. よって、1.は否定され、Nの基数<Rの基数、である。
と言う3.で、Nの基数=Rの基数が破綻する(更に、N⊆Rから、実数の基数が大きい)という一般的な推論を(ヴィトゲンシュタインは)拒否し、1:1の対応づける方法がないことを棄てるべき(よって、基数の大きさについては何も分からない)だ、というのは、論証として正しくない(=数学が分かっていない)ということ。

 *1.1 当日の自己紹介で、ぼくは、「無学(仏教的に言うと、もはや学ぶことはない、になってしまう)というと語弊があるので、"非学"者の松崎です。素人が、どこで、何を、どう、混乱しているかの見本例を提示できれば、と思い参加させていただいてます」と挨拶しました。
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*2  会の後の懇親会には11人残りました。始めは、偶々近隣になった人同士で別々の話題が湧いていましたが、中央にいたM氏とM氏が声を張り上げ始め、その話題のかけら(気づきとクオリア)を耳にしたM氏が突如割り込んで、酒の勢いもあり、話題はあちゃこちゃに飛び(可能世界とか、知識とは何か、とか、ゲーデルの不完全性とか)収拾が付かなくなりましたが、懇親会ですので、議論のための議論、もまた一興でしょう。なお、M氏、よく考えたらあの場には、4人いました。発表者の三浦、村田両氏に、一方の著者・水本ですが、もう一人、引っかき回した迷惑者がいたような
m(__)m。
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by yasumim | 2013-10-07 22:16 | 幻想肯定と妖気扉


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